
これはアドラーの言葉ですが、確かにその通りかもしれません。僕たちは社会の中で生き、人と関わることを避けることができません。
そして、その中で世間の目や周囲の目というものに晒され続けます。だからこそ、「生きづらい人」がいますし、「ストレスを抱えてしまう人」も多くいるのが現代社会です。
そんな中で、アドラー心理学における「対人関係の悩み」を解決するためのとっておきの方法をご紹介します。
そのとっておきの方法とは「課題の分離」というものです。
課題の分離とは
『課題の分離』とは簡単にいうと、

ということです。
詳しく説明しますと、『課題の分離』とは、予測不可能な相手の感情や気持ちを「他者の課題」とし、
自分の予測可能・コントロール可能な自分の感情や気持ちを「自分の課題」として分けてしまおう。
そして、「他者の課題」は自分には「変えること・コントロール」ができないから無視してしまおうということです。
「他者の課題」に介入しない
「課題の分離」をすることができたら、「他者の課題」に介入しないということが重要になってきます。
「相手の課題」とは「変える・コントロール」することができません。
つまり、他者が「何を思うか・何を感じるか・何をするか」という「他者の課題」は他者次第ということです。

と考えたとしても、自分の発言を受け取った相手がどう思うかは「相手の課題」なので、気にしてはいけません。
相手がどう思うかは「相手の課題」であり、自分がコントロールすることができないですので、
そのようなコントロールすることができない相手の課題に対して考えたり、悩んだりする必要はないということはないのです。
「自分の課題」に介入させない
「他者の課題」に介入しないことも重要なことの一つではありますが、
「自分の課題」に介入させないということも非常に重要になってきます。
例)A君の親はA君に「医者になれ」と言っています。しかし、A君は映画関係の職業に就きたいと考えています。
ここで、A君が「将来にどういう職業に就くか」というのは『A君の課題』であり、A君に医者になってほしいというのは『親の課題』です。
なので、『課題の分離』をして、A君は『親の課題』、つまり『他者の課題』を気にせずに映画関係の職業に就職すればいいということです。
これが「自分の課題」に介入させないということです。
つまり、「何を思うか・何を感じるか・何をするか」ということを他者に介入させてはいけないのです。
ちなみに、友人でさえ、両親でさえ、『自分』ではないなら『他者』です。
課題の見分け方
では、「自分の課題」か「他者の課題」かを見分けるにはどうすれば良いのでしょうか。
それはとても簡単なことで「その行為の責任を誰が引き受けるか」ということを考えればいいのです。
例)宿題をしない子供がいて、お母さんが「宿題をしなさい!」と怒りました。
「宿題をしないことの責任」を引き受けるのはその子供であるので、「宿題をするかどうか」というのは『子供の課題』になります。
なので、お母さんは『子供の課題』に介入すべきではないということになります。
「課題の分離」の注意点
ここで、

という風に考えてしまう人もいるかもしれません。
少し冷たいと思われるかもしれませんが、実は、これすらも放っておいてもいいのです。
その落ち込んでいることの責任を取るのは友達なので、落ち込んだ後どうするかというのは「他者の課題」であるからです。
しかし、頼ってくれれば「サポートやアドバイスはしてあげるということを伝える」もしくは「サポートやアドバイスをしてあげるスタンスで見守ってあげる」ということが重要になります。
決して、他者の課題として切り離して放っておくということではなく、
相手の選択に任せ、強くなって乗り越えられるまで見守ってあげるということなのです。
なぜ放っておくのかと言いますと、もしかしたら、他者の課題に介入しすぎると、他者の悩みを抱えてしまうかもしれませんし、他者がその壁を乗り越えることで得ることができたであろう成長を阻害してしまうことになるかもしれないからです。
「嫌われる勇気」を持とう
アドラー心理学では「課題の分離」は人間関係の入り口であると言われています。
しかし、まずは「課題の分離」をすることが重要です。
これをするだけでも、大きく人間関係の悩みは解決に向かっていくでしょう。
しかし、もし「課題の分離」ができたとしても、問題は「嫌われる勇気」を持つことができるかどうかです。
ここが「課題の分離」の最もネックな部分であると言えます。
相手が「自分の課題」に干渉してきたとしても、
「それは私の課題なので、干渉してこないでください」と言えるかどうかです。
「好かれる」というのは簡単です。自己犠牲をして他人に尽くせばいいのです。
しかし、それが本当に自分の人生を生きていると言えるでしょうか?
自分の人生を生きるためには「嫌われる」ということが必要なのです。
「嫌われようとする」のではありません。「嫌われることを恐れないで嫌われる勇気を持つ」ということです。