
この間、NHKの「奇跡のレッスン」というものを見ました。
その中で、海外のサーフィンのコーチが日本の学生に、「サーフィンに重要なのは?」と聞いた際に、日本の学生が、「楽しむこと」と答えました。
それだけならまだしも、その次の日本の学生もまた「楽しむこと」と言う同じことを繰り返すというシーンがあり、
それに対して、コーチが「自分の意見はないの?」という会話を交わすシーンがありました。
サーフィンに重要なのは?との質問に、「楽しむこと」と抽象的で精神論的なたったの一言だけで答え、しかも右に倣えで生徒たちが口を揃えてその答えを言うので「羊のようだ、自分の意見は言えないのか」と。細かく理論的に言語化し、自分で考え表現する、という力が日本人には本当に足りない。 pic.twitter.com/MR90NHdJSz
— 鈴木祐介 (@7_color_world) 2018年6月29日
このtweetにも書かれているのですが、日本人というのは圧倒的に言語化する能力が足りないと思います。
つまり、何かを感じた時も「楽しい」「嬉しい」「怖い」「辛い」「腹がたつ」「イライラする」など。最上級の抽象的な言葉で終わってしまいます。
いや、現代の最上級は「ヤバい」でしょうか。。つまり、語彙力のない人が増えているとも言えます。
さらに語彙力のないわたし pic.twitter.com/FhzTrrdXvS
— 加神 サキ🦀1日目東モ-15a (@bodewignull) 2016年9月1日
活字離れはしていない日本人
現代人は「活字離れが深刻」と言われがちですが、
僕はそうは思っていなくて、活字に触れる機会というのは、現代人には結構あります。LINEやらTwitterやらのSNSで活字が溢れているからです。
あれほど毎日活字を見ているのに、「活字離れ」は短絡的すぎないかと思います。
この「言語化する能力の低下」は、その日々触れる言葉が、『簡略化』『抽象化』されてきているということが挙げられます。
つまり、「より楽に、よりわかりやすく」という風になってきているということです。
例として、僕も便利なので使いますが、「了解」が「り」になったり、返信や会話を「絵だけのスタンプ」になっていることが挙げられます。
そんな、『簡略化』『抽象化』された言葉のシャワーを浴びていれば、言語化することができなくなるのも当然でしょう。
楽しくても、嬉しくても、怖くても、辛くても、悲しくても、言語化したら「ヤバい」になるのです。
思考と言葉の簡略化の弊害として、自分のことすら論理的に解析できなくなっている。
「だるい」は典型。
自分はしんどいのか?辛いのか?体が?心が?
もっと、自分と対話しないと自分が求めていることはわからない。— not@ミニマリスト (@minimalman10) 2017年12月26日
極論を言うと、このままでは全ての感情に対して「ヤバい」という言葉が使われていくのではないでしょうか。
「言語化できない」=「考えていない」
僕は「言語化できない」ということは「考えていないのと同じ」であると思っています。
「楽しい」と感じるのは「ワクワク」という沸き上がってきた感情に対して、「楽しいというラベル」を貼っているだけに過ぎないのです。
その後、「何が楽しかったのか」「なぜ楽しかったのか」「どういう風に楽しかったのか」ということを考えていくことが思考することであり、言語化するということです。
「好きな事」といったおきまりの言葉も曖昧だ。
それによって楽しいのか?
嬉しいのか?
認められるのが嬉しいのか?
うまくできるから楽しいのか?
やる事自体が楽しいのか?
思考と言葉の掘り下げを習慣化しよう。— not@ミニマリスト (@minimalman10) 2017年12月26日
つまり、多くの言語化できない人は、「楽しい」「悲しい」と言って言語化している「つもり」であり、頭の中で考えている「つもり」であるのです。
もはやそれは感情のままに生きる「動物的な生き方」であり、創造的で理性的な「人間的な生き方」と言えるでしょうか。
言語化できない弊害
では、なぜ言語化する必要があるのでしょうか?
別に「楽しい」「嬉しい」「悲しい」「イライラする」という言葉だけでも生きていけるのではないでしょうか?
実はそれは正解で、言語化しなくても生きてはいけるのです。
しかし、そこに『自分』はいるでしょうか。
『自分』は何を感じ、何を思い、何を考えたのか。『自分』はどういう思いで、何をしたいのか。何が好きで何が嫌いなのか。
冒頭で紹介した、海外のサーフィンコーチが言ったように、『自分』を失い、右へ倣えで羊のように生きていては一体自分の人生は誰が生きるのでしょうか。
また、言語化できない人に多いのが、「やりたいこと・好きなことがわからない」という人です。
自分の行動や感情に対して、言語化をせず、ただ感情や衝動のままに動いているため、いざ自分のことを考えてみると自分のことがわからなくなるのです。
そうして自分のことがわからなくなってくると、人は無気力になり、進むべき方向を見失ってしまいます。
なので、自分自身を言語化していくためには常に自分の思考や行動、感情に「why(なぜ)を問い続ける」ということが非常に重要になってきます。
終わりに
自分自身の独立した思考や感性を作ることが「個性」や「自分らしさ」として出来上がってきます。
なので、無理に『個性』というものは作らなくても、自分と向き合っていれば自ずと出来上がっていくものです。
多くの人は『自分』と向き合わず、『他者』との比較から『自分』というものを作りがちですが、『自分』は『自分』の中にしか存在せず、
思考し、言語化していった先にしか『自分』というものは生み出されません。
映画を見終わった後に、「あれはマジでヤバイ。」で終わっていないか注意して見てくださいね。