人間というのは何か自分だけのオリジナリティや個性といった『自分らしさ』を探し求めてしまう生き物である。
「自分らしさ」というのは「やりたいこと」や「好きなこと」とも言えるかもしれない。
僕たちは、時には人と違うことをしてみたり、時には人を真似てみたりして、『自分らしさ』や『個性』を探そうとする。
しかし、その『自分らしさ』がしっかりと定まることはなく、まだまだ未知の自分があると信じて突き進んだり、感情の突き動かされる方に進んでみる。
このように進んでいても、本当の意味での『自分らしさ』というものは定まることはない。
なぜなら、その先に答えはなく、そもそも自分自身も『自分らしさ』の答えを持っていないからだ。
「自分らしさ」を探す人生
近代的な人間観とは「自分らしいことをやり、自分らしく生きていく」という考え方であり、
これは自分とは何かを考えて思い悩む「自分探し」的な迷いを引き寄せる。
引用 デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘びと寂び
このように、近代的な「自分らしいことをやり、自分らしく生きていく」というのは、
あくまで「自分らしさ」というのを探すという前提で、かつ「自分らしさ」を探すための人生であるかのようなニュアンスがある。
しかし、「自分らしさ」とは冒頭でも言ったように、答えのないものであるのであり、もはや答えの無い問題を解こうとしているようなものである。
なので、答えの無い問いに思い悩み、そして、結局「自分らしさ」が見つからないまま死んでいくのだ。
「自分らしさ」とは過去の産物
今後の社会で重要になるのは、今現在、即時的に必要なことをリスクをとってやれるかどうかだ。
今ある選択肢の中でできることをやる。そして、やったことによって事後的に「自分らしさ」が規定されていく。
引用 デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘びと寂び
ここで言いたいのは、「自分らしさ」とは探していくものではなく、「行動」の後についてくる「結果」でしかないということだ。
自分の「やりたいこと」や「やるべきこと」という「行動」に対しての「結果」が「自分らしさ」であるので、
まずは何らかの行動を起こさないと自分らしさは出てこない。出てくるはずが無いのだ。
だから、行動を起こさないのに、「自分らしさ」というものを求めることは無意味で、正に答えの無い問いを考え続けるのと同じだ。
そして、「自分らしさ」とは、行動に対する結果として規定されていくものであるので、自ら探そうとするものでも無い。
とにかく、自分の「やりたいこと」や「やるべきこと」に対して行動していけばいいのだ。
特別になる必要はない

冒頭でも言った通り、僕たちは「自分らしさ」に「オリジナリティ」を求めてしまう生き物である。
つまり、「特別でありたい」とか「秀でたい」とかそういう類のものである。
しかし、「特別」というものは「その他」があるからこそ「特別」なのである。
つまり、「他者」を意識するからこそ僕たちは「特別になりたい」と思ってしまったり、「凡庸になりたくない・普通になるのは嫌だ」と思ってしまう。
ここよく考えてみて欲しい。
一体何のために「特別」になろうとしなければいけないのだろうか。
他者より優れたいから?自分らしさを出したいから?自分は価値のある人間だと認めさせたいから?
何が言いたいかというと、
「他者との比較」の先に自分を「自分らしさがあるね」とも「個性がにじみ出てるね」とも「特別な人間だね」というのは誰も言ってくれないし、それが正解であると言ってくれる人間は誰もいない。
つまり、「正解」とは自らが作り出すものであって、他者が決めてくれるものではなく、決めさせるものではないということだ。
その「自分らしさ」や「個性」の判定基準が「他者」ではなく「自分」であるとするならば、
競争は必要だろうか?比較は必要だろうか?普通と特別を分ける必要はあるだろうか?
僕たちは一切「特別」になる必要などなく、それぞれがそれぞれの「普通」を生きて行けば良いのではないだろうか。