
こんにちは。not(@minimalman10)です。
前の記事で、人間はダラダラした方が幸せか、自己コントロールした方が幸せかという記事を書きました。
その中で、『幸せ』には「幸福感」と「充実感」があり、
幸福感の先に充実感は無く、充実感の先に幸福感が存在するので、
充実感を得た上で幸福感を得ることで双方のバランスが取れるので楽しく生きられる。という話をしました。
今回は、充実感というものはどうやって得ることができるのかについて考えていきたいと思います。
充実感は行動の先から生まれる
充実感といってもやはり『行動』の先にしか生まれなくて、
多分、家で横になってボーーッとテレビを見ていても、スマホをいじっていても、1日が終われば後悔だけが残ると思われます。
では、なぜ充実感がある行動と、充実感がない行動に別れるのでしょうか?
両者を比較してみようと思います。
では、充実感がない行動というのを挙げてみると、「寝る」「スマホ」「テレビ」「横になる」「ボーッとする」
とまあ、これぐらいでしょうか。。
次に充実感のある行動を挙げてみましょう。「外に出かける」「本を読む」「料理を作る」「掃除をする」「運動する」
挙げればきりがないのでこれくらいで。。
両者を比較するとどうでしょうか。。
充実感のない行動というのはより「楽」であり、「思考停止」しており、「受動的」ですよね。。
しかし、多分誰しもが充実感のない行動を理解しており、やりたいとは思っていないはずです。
しかしやってしまうのが僕たち人間です。しかし、それには理由があります。
充実感は「◯◯◯◯◯」の先にしかない
次は、先ほどの比較で挙げた充実感のある行動の特徴を挙げてみると、「苦」で、「思考的」で、「能動的」です。
充実感のない行動を「楽」だとすると、充実感のある行動は「苦」であり、「思考」しなければならなくて、自分からやろうと思うわけですから「能動的」です。
比較すると充実感のある行動は凄く「めんどくさい」わけです。
充実感はめんどくさいの先にしかない。
— not@内向型ミニマリスト (@minimalman10) 2018年8月13日
充実感のない行動をとってしまうと罪悪感を感じてしまうのは、僕たちに世界をより感じさせるための神様の試みのようにも思えます。
いや、現実的に、楽して寝転がっていては繁殖に不利であるという方が正しいでしょうか。本当はなぜなのかは知りませんが。。
余談はこれくらいにしておいて、充実感を得ようとする唯一の方法は「めんどくさい」の先に進む。ということです。
めんどくさい暮らし
では、「めんどくさい暮らし」をしていけばいいのかと言われるとなんだか「めんどくさい暮らし」というのは言い方が悪いですね。。
言い方を変えましょうか。
「めんどくさい暮らし」改め、「丁寧な暮らし」です。
これなら「めんどくさい」のイヤイヤ感は払拭されたでしょう。
「丁寧な暮らし」と言うのは美しく聞こえますが、非常にめんどくさいです。
僕が想像する丁寧な暮らしの一例を挙げてみると、
朝起きて、歯を磨き、シャワーを浴びる。しっかりした服装に着替え、白米を炊いて、具沢山の味噌汁を作る。そして魚を焼いて朝ごはんを食べる。午前中は、スタバ的なカフェに行って軽食を取り、作業をすまし、一度家に帰ってきて少しの仮眠を取る。もう一度作業をして、夕食を作って食べる。その後、食器を洗い、洗濯と家の掃除する。その後お風呂に入って映画を鑑賞し、アロマキャンドルを炊いてヨガ。その後読書をして就寝。
ほらね。こういう暮らしって凄いめんどくさいじゃないですか。。でも、凄く丁寧な暮らしで、寝る前には凄く充実感に溢れていると思います。
多分、想像しただけでも充実感がわかるんではないですか?僕は書きながら充実してましたよ。。
「めんどくさい暮らし」と「丁寧な暮らし」というのは同義であり、
「丁寧な暮らし」とは「めんどくさい暮らし」を綺麗な言葉で収めているだけです。
しかしながら、充実感を得るためにはこの暮らしを実践するしか道はないのです。
でも、これで「めんどくさいこと」の先には「充実感」という報酬があるということがわかったはずです。
これから「めんどくさい」ことが人生にあっても、「この先には「充実感」があり、逃げれば「空虚」になるだけ」ということは理解しておくと良いでしょう。
最後に僕の大好きな宮崎駿氏の名言で終わりにしたいと思います。







