【アドラー心理学】承認欲求を満たすために生きてはいけない。

 

あなたは「他人から認められたい」という「承認欲求」を満たすために生きていませんか?

「承認欲求」が満たされると、「自分は誰かに必要とされている」「自分は誰かの役に立った」という自分自身の存在が肯定されたような気がします。

 

それは、非常に良いことのように思えますが、

『アドラー心理学』では「承認欲求を満たすために生きること」を否定しています。

 

今回は、一体なぜ「承認欲求を満たすために生きること」をアドラー心理学は否定しているのかについて見ていきましょう。

 

承認欲求を否定する理由

 

では、アドラー心理学では「承認を求める生き方」はなぜ否定されるのでしょうか。

これには大きく分けて三つの理由があることが挙げられます。

 

①自分の存在価値を他人に求めてしまう

②他人を気にする不自由な生き方になる

③相手をコントロールしようとする

 

①自分の存在価値を他人に求めてしまう

 

「他人に存在価値を求める」ということは、

そもそも自分に価値がないと思っており、自分を価値のある存在であると認めていないからこそ出てくる考えです。

 

そもそも「自分が本当に価値のある存在であると認めている」のならば、他人に存在価値を求めなくても良いはずなのです。

なぜなら、承認されなくても自分自身の存在価値はあるからです。

 

本来は全ての人間は平等であり、存在価値は同等のはずです。しかし、自分の存在価値を認めていないからこそ、承認を求め、自分の存在価値を見出そうとしてしまいます。

 

②他人を気にする不自由な生き方になる

 

自分の存在価値を他者に求めてしまうということは、「他人の評価でしか自分の存在価値を認識できなくなる」ということです。

そうなると、他者の目というものが物凄く気になり、他者から評価されるために生きることになります。

 

なので、「他人のために生きている状態・他人の人生を生きている状態」になってしまい、自分の人生なのに、もはや誰のために生きているのかがわからなくなってきます。

 

自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか。

 

③相手をコントロールしようとする

 

承認を求めすぎてしまうと、

not
自分のことを認めさせてやる。

という風に、「相手の課題」にまで介入してしまう恐れがあります。

 

そこまでいかなくとも、

not
なんで、あの人は自分のことを理解してくれないんだ。

という風になってしまいます。

 

そもそもそういう人は「相手がどう思うかというのはコントロールできない」ということを理解していないのです。

つまり、「課題の分離」ができていないと言えます。

 

つまり、これも先ほど言ったように、他者を変えようとして「他人の人生を生きること」となってしまいます。

 

 

賞罰教育の否定

 

また、アドラーは「賞罰教育」を否定しています。

「賞罰教育」とは「良いことすればご褒美がもらえ、悪いことをすれば罰がある」という教育方法です。

 

しかし、これでは「褒めてくれる人がいなければ適切な行動をとらない」「罰する人がいなければ不適切な行動もとる」という風になってしまい、

他者からの承認を求めるために行動するようになります。

 

叱られたり、ほめられたりして育った人は、叱られたり、ほめられたりしないと行動しなくなる。そして、評価してくれない相手を、敵だと思うようになるのだ。

 

賞罰教育を受けてきた現代人

 

しかし、多くの人はこの賞罰教育を受けてきたでしょう。

例えば、学校で綺麗に掃除をする時に「学校を綺麗に掃除するために掃除を頑張る」という人はいるでしょうか。

多くの人が、「綺麗になったね」と褒めてもらうためにするのではないでしょうか。

これでは「褒めてもらうこと」が目的であり、「掃除すること」はその「手段」になってしまっています。

 

本来は「共同体感覚」に沿って「掃除をして仲間が快適に過ごせるようにする」ということが目的であるはずです。

しかし、承認のために行動が規定されてしまう。これがアドラーが賞罰教育を否定する理由です。

 

自由な人生とは

 

自分は自分の期待を満たすために生きているのであって、他者の期待を満たすために生きていません。

その逆も然りで、他者も自分の期待を満たすために生きていませんし、他者自身の期待を満たすために生きています。

 

つまり、それぞれが「自分の人生」を生きていれば「嫌われる」ということは仕方のないことなのです。

 

自由とは他人に嫌われること。

出典 嫌われる勇気

 

「嫌われないようにする」ということは「他人に依存する不自由」で、つまり「承認されるように生きる」ということです。

ならば、「自由」とは「承認されなくても生きる」ことであり、「嫌われること」であるのです。

 

他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。

 

本当に自分にとっての自由な人生を歩むためには「嫌われる」ことは避けては通れないことなのです。

 

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